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歴史 (小名木川小学校の前身)

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■小名木川小学校の前身 (■沿革) 小名木川小学校の前身である小名木川高等小学校・小名木川国民学校は、空襲で全焼、校舎や記録は全て灰燼となってしまいます。 その後、小名木川高等小学校・小名木川国民学校跡地に現在の小名木川小学校が復興します。   読売新聞朝刊掲載記事(2005.3.8) 戦後60年東京大空襲特集の一つ     工場の町“小名木川”   北に小名木川。東芝の工場。日本カルケット工場。 中央に小名木川小。大きな金魚池。 南に焼き場通りと都砂町火葬場。 ◆精糖工場があった頃   明治22年。日本精製糖株式会社を創立し、その後、小名木川沿いに紡績工場・人造肥料工場などの工場が次々に建てられ、工場の町に発展した。 ※「我国精製糖発祥の地」の碑が、北砂5丁目団地内にある。   ◆東芝の工場があった頃   昭和16年。東京芝浦電気株式会社は、大日本精糖株式会社小名木川工場を買収して、砂町工場とする。タングステン・モリブデンの精錬・カーボン炭素棒・電池各種・合成ゴムなどを製造。製造が激しくなるにつれ、軍需工場化していった。     僅か3ヶ月の“短命に終わった小名木川高等小学校”   小名木川高等小学校が創建されるまでは、砂町にある尋常小学校を修了した子ども達は、高等科のある砂町小学校に進学していました。高等科に進学を望む子どもが多くなり、砂町住民の熱い期待を集めて、城東区砂町に新たに高等小学校を創ることになりました。砂町唯一の「小名木川高等小学校」の誕生です。 この小名木川高等小学校は3ヶ月の短命で、昭和16年(1941年)3月に第一回の卒業生535名を出して終焉を迎えます。それは昭和16年4月から国民学校令が施行され、小名木川高等小学校は城東区18番目の小名木川国民学校となったからです。 昭和15年 11月30日 校舎竣工 所在地 : 城東区北砂町3丁目381番地 昭和16年 1月17日 東京市小名木川高等小学校創立 (1月16日記載もあり) 砂町尋常高等小学校から高等科を分離独立。 城東区砂町の唯一の高等小学校として創立。 砂町小学校は尋常小学校となる。 職員 鈴木校長 職員19名 高等科1年、高等科2年のみ 児童数1203名 新校舎と初代校長 鈴木先生 3月25日 第1回卒業式 第1回卒業写真帳 高2年3組 第1回卒業生 535名(男5組・女4組) 高2年1組 堀口先生 男61名 高2年2組 佐藤先生 男62名 高2年3組 河野先生 男61名 高2年4組 藤井先生 男59名 高2年5組 西澤先生 男57名 高2年6組 佐々木先生 女59名 高2年7組 塚本先生 女57名 高2年8組 近藤先生 女59名 高2年9組 道田先生 女60名 第1回卒業生 高2年3組 仲山 国谷 様 (江東区東砂在住) 私は昭和16年1月に開校した小名木川高等小学校の第1回の卒業生てす。それまでは、砂町尋常高等小学校の高等科に在籍していました。新しくできた小名木川高等小学校の卒業生で、最初で最後の卒業生となります。その4月から、小名木川国民学校と変わり、そして、12月に太平洋戦争が始まりました。     城東区18番目の“幻の小名木川国民学校高等科”   砂町地区の尋常小学校の卒業生が入学しました。昭和20年3月10日に全焼し、校舎や記録はすべて灰となってしまいました。 昭和16年 3月1日 国民学校令交付 4月1日から小学校を国民学校と改称し、国民教育の戦時体制強化を図る 4月1日 国民学校令施行 東京市小名木川国民学校高等科に改編 (江東区史年表に記載なし) 「江東区学校教育史」編纂過程で発掘された資料 昭和16年4月1日 小名木川国民学校 学校長氏名 : 山崎 堺  教員数 : 22、学級数 : 23、児童数 : 1,320名 所在地 : 城東区北砂町3丁目381番地 電話番号 : 本所5016 昭和16年度発行「東京市市政年報・教育篇」より 12月8日 太平洋戦争開戦 昭和17年 3月25日 小名木川国民学校高等科第2回卒業式 昭和18年 3月25日 小名木川国民学校高等科第3回卒業式 昭和19年 3月25日 小名木川国民学校高等科第4回卒業式 8月1日 戦況が悪化し、空襲を避けるために学童疎開開始。 国民学校初等科の3年以上は学童疎開。城東区は山形県、深川区は新潟県へ。 国民学校高等科は、学徒隊として工場に学徒動員。学校を工場がわりにして軍需品も制作。 昭和20年 3月4日 空襲(午前8:00~10:00)で校舎南端半焼、北砂2~4・7丁目と南砂2・4・7丁目が被災 3月10日 東京大空襲 校舎全焼(校舎や公文書類は焼失) 砂町・江東一帯が焦土と化す 焦土と化した砂町・小名木川の航空写真 中央を南北に走るのが明治通り 中央を横切るのが小名木川 交差している地点が進開橋 中央右が小名木川小学校 砂町ゆかりの俳人 石田波郷の“焦土諷詠” (旧北砂町1丁目に昭和21年から昭和33年までの12年間在住) 『百方の      焼けて年逝く           小名木川』 3月11日 城東区浅間小学校に間借り 3月25日 第5回卒業式未挙行 4月1日 初等科併置 砂町・二砂小学校に委託 高等科は浅間小に間借り (江東区史年表に記載なし) (不明) 公文書等の精査の必要あり 8月15日 太平洋戦争終戦 長く苦しかった戦争終結 9月1日 国民学校授業再開 (不明) 昭和21年 3月25日 小名木川国民学校高等科第6回卒業式 卒業生23名 小名木川国民学校の卒業生台帳焼失の為、新しく高等科卒業生台帳を起こす。 昭和6年4月~昭和7年3月生まれ 高等科卒業生台帳記載分 男11名 女12名 計23名 昭和22年 3月15日 江東区誕生 城東区と深川区が統合 3月25日 小名木川国民学校高等科第7回卒業式 卒業生20名 国民学校高等科の卒業生台帳記載分 昭和7年4月~昭和8年3月生まれ 高等科卒業生台帳記載分 男20名 女0名 計20名 3月31日 国民学校廃止令 小名木川国民学校高等科廃止 小名木川高等小学校・国民学校高等科の歴史は幕を閉じる 4月1日 東京都江東区立小名木川小学校誕生 砂町小学校の仮校舎の一部間借り授業開始   小名木川学校の沿革を偲びて   初代PTA会長 加藤 録太郎 氏 現在の小名木川小学校の前身であった旧城東区立小名木川高等小学校は、砂町全域に互り各学校を6学年を卒業したものが高等科に入学してくるので、高等科は二ケ年で卒業する事になっていました。同時の後援会の役員は砂町全地区の町会長さんによって組織され、設備資金も多額に募金され、区内に於いても稀に見る設備の充実された学校でした。 昭和12年7月7日に端を発した北支事変、太平洋しと進展するに及んで、物資の不足、人手不足の為に、生徒は授業の傍ら国策にそって軍需物資の加工に励んで、ひたすら戦の勝利を念願しつつ努力しておりました。 一部には航空隊に志願入隊し、若鷲として護国の花と散った幾多の犠牲者を出したことを思い浮かべます。 其の後、我が国の戦は利あらずして度々の空襲により遂に、昭和22年3月4日の本校の南端の一部を、3月10日に一物を残さず全焼していました。 『創立20周年記念誌より一部抜粋』   第5回卒業生のお話   山下 きく子 様(香川県高松市在住) 現昭和15年11月に校舎が校舎が完成し、昭和16年1月に小名木川高等小学校は開校しました。私は二砂小の尋常科を卒業して、昭和18年4月に入学しました。兄の加藤米太郎は2年生に在学していました。 勉強は何をしたか覚えていません。軍事教練や学徒動員があり、亀戸の精工舎の工場にいった覚えがあります。少しお給金をいただいたような記憶があります。学校で戦争に使う物を作っていました。竹と紙と油脂で石油を入れる樽の様な物を作っていました。 3月4日の昼近くに空襲がありました。私は家が近かったので家にもどりました。家が遠い生徒は防空壕に逃げました。学校は爆撃を受けて炎上しました。それから、友達とはあっていません。3月4日と10日の2度の空襲で小名木川全焼しました。私の家族も焼け出され、遠縁を頼って香川県に疎開しました。 卒業証書がなくて、困ったこともありました。お子守さんをして生計を助けたことがありますが、今は家族に囲まれて幸せに暮らしております。疎開当時は、とてもつらい悲しい思いをしましたよ。 (旧姓:加藤きく子さん)   鈴木 せつ 様(南砂在住) 昭和20年3月に小名木川国民学校を卒業する予定でした。東京大空襲で、校舎は全焼し、友達と離ればなれになってしまいました。 卒業証書を頂いていないので、就職する時に困ったことを覚えています。 (旧姓:宮崎せつさん)


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